Really Saying Something

雑文系ブログです。

311、とはちょっとだけしか関係ないこと

東日本大震災から2年が経った。その2年の間に、震災とは関係なく、引っ越しを代表とするいろいろなことがあった。いろいろなことがあったなぁ、と振り返って、2年前ってどんな感じだったっけ、を思い出して出てきたことを書く。震災を発端とした連想ゲームの結果なので、震災について直接触れる部分がないんだけど、私の中でつながっているもので、期待外れだったらごめんなさい。

2011年3月は義父がまだ元気だった頃で、いろいろ病院に通ったりあちこち具合の悪いところはあるにしても、概ね普通に暮らしていた。震災の揺れも大阪では生活に影響を与えるほどではなかった。5月くらいに急に体調が悪化した。最後に入院したとき、もう自宅には帰れないかも、と、また戻ってこられるかも、が半々だったのが、あっという間にめどが立たなくなった。意識や思考がしっかりしているのが幸いして、普段のコミュニケーションはまったく差し障りなかった。6月下旬の会社での記録を振り返るとおもしろい(といっては不謹慎か)。周囲の人の支えでなんとか、本当になんとか過ぎ去った、という感じ。感謝してもしきれない。そして7月上旬に亡くなった。その後9月末に東京に引っ越すまで、すべてのタイミングが奇跡的によかった。よかったというとまた不謹慎なのかな。でも周囲の、理解を示してくれる人たちが、割と口をそろえて言っていたし、自分たちでもそう思っていた。

6月下旬に本当にどたばたしているとき、義父は会話ができるものの記憶が混濁している時期があった。その時、義父が近い人の中で真っ先に忘れたのは私だった。正確に書くと、夫が(もう)結婚したと聞いてびっくりして、喜んでいた。その瞬間の義父の記憶はきっと夫が小さいか、10代くらいの頃だったんだと思う。なので、私は改めて自己紹介をした。義父の名誉のために言っておくと、忘れたからといって特に失礼なことを言われるようなことは一切なく、「なんだか若い女性が病室にいる」という認識の仕方をしていたようだった。

忘れたのが私であったことについて、1/3寂しく、2/3はほっとした。寂しいというには近くで過ごした時間は短く、お互いのことをそんなに深く知ることはなかった。とはいえ、ある程度お互いにビジネスライクに過ごすのが常だったので、「近い他人」としてあれこれ話すことはあった。「割と使える嫁が来た」とちょっとでも思ってもらえたらいいなぁと思った。ほっとした、というのは、私の存在がそこまで大きく晩年に影響しなくてよかったなぁ、ということについて。関わりを持つのがもしもう少し早かったら、もう少し遅かったら、いろいろ当時考えたけど、これまたタイミングがよかった……と言い切るにはまだ、私は人間が練れてないかもしれない。でもそのあれこれは義父には関係がなくて、義父をきちんと見送ることができてよかったなぁ、と思っている。

私にとっての2011年は、正直にいうと震災の1年ではなかった。けど、たぶんずっと忘れない1年になると思う。