Really Saying Something

他にバイク(VTR-F)日記とかTwitterのlikeまとめブログとかやってます。

人が怖くなった時の話

だいぶ昔のことなので詳細は事実とずれてるかもしれないけど、うまくフェイクになってくれるかもしれない。

小学校高学年から中学生にかけて、「歌謡曲」という雑誌をよく買っていた。本来であればコード進行などがわかってギターやピアノの演奏などに使用するためのものなんだろうけど、当時コードとは何かすらよくわからなかった私は、専ら好きな曲とメロディーを見て、たまにソプラノリコーダーか鍵盤ハーモニカで吹き鳴らしてみるというのをやっていた。中学2年からは吹奏楽部に入ってクラリネットを吹いたけど、これまた音楽の素養がなかった私は、自分のパートの楽譜がB♭管用であることをあんまり理解していなかった。とにかく自分の好きな歌謡曲を覚えるために使っていた。

確かその雑誌の後半に、文通相手募集とか、一緒にコンサートに行く人募集とかのコーナーがあって、雑誌の切り抜きやグッズの交換も行われていた。今思えば大変な大らかさだ。私は何かのきっかけで、当時大好きだったCHA-CHAの何かの切り抜きを交換したことがある。その時に、自分の住所と名前が掲載された。交換相手は、かなりガチの追っかけの人だったようで、どこかのロケに行って誰と話した、という内容の手紙が何回か届いた。私は何を書いていいか全くわからず、テレビ番組の感想を書いたものを返事として送った。私から提供できるような情報は何一つないのだ。その追っかけの人は、しきりに「のり切手を使って」と言っていた。私は「のり切手」がわからなくて、質問したけど、明確な返答はなかったような気がしている。後にインターネットでふと思い出した「のり切手」を調べたら、切手を貼った上からのりを塗り、消印が押されても水にふやかしておくことで再利用するためのテクニックであった。だめじゃん犯罪じゃん。「のり切手」の彼女は、私が有益な情報源ではなかったせいか、何通か手紙を往復したあたりで疎遠になった。

もう一人、雑誌に掲載された私の名前宛てに手紙を送ってきた人がいた。かなり遠方で、身近にCHA-CHAの話ができる人がいないから友達になってほしいといった内容だったと思う。申し訳ないけど字がだいぶ汚くて、住所をもとに地図帳を開いて、この辺か、とあたりをつけた。そりゃ遠かろう、と思った。しかし、私は番組観覧を単独で申し込める年齢ではなかったし(保護者必須)、さっきも書いた通り追っかけでもなかったので、さして面白い手紙を書けるわけではなかった。ざっくりした手紙がきて、何を返答していいかわからず、完全に当たり障りのないことを書き送っていた気がする。

ある日、電話がかかってきた。母が受話器を取り、私宛ての電話だけど聞き取りにくい声で誰かわからないと言った。いたずら電話ではないかと家族中が警戒する中、電話を代わると、ぼそぼそとした声で、手紙の主の名前が告げられた。大変驚いた。手紙を書くときの常として、自宅の電話番号を末尾に付けていたけど(当時携帯電話は存在していません)、まさかだいぶ遠距離からかけてくるとは、そしてそもそも用事があるとは思わなかったのだ。

彼女は長い沈黙を続けた。最初は何の用事か聞いていたと思う。それに明確な回答はなかったような記憶がある。CHA-CHAの話題を振っても、中学生活の話を振っても、短い「うん」のような言葉しか返ってこなかった。質問をしてみたけど話がつながるような答えではなかった。私は混乱した。当時、そこそこの時間を話すとまあまあの料金が取られる時代だ。中学の友達と家の電話で長電話をして怒られていた時代だ。用事があるとかごはんだとか、適当な言い訳で電話を切った。母親に、どこの誰からの電話だったのか説明するのに苦労した。

それから時折、彼女から電話がかかってくるようになった。最初は手紙のやり取りって言っていたし手紙にしよう、という私の提案は、無言という反応でないものとなった。かけてくる割には本当に何もしゃべらない。私は虚空に向かって、ひたすらいろいろな話をした。相づちは何回かあったけど、会話のキャッチボールにはならなかった。電話代が大変だからこちらからかけ直すと提案したこともあった。たまに、重い気持ちで電話をすると、お母さんらしき人が出て、明るく取り次いでくれるのだった。私はますます混乱した。取り次がれた先には虚空しかない。ずっと黙っている相手の感情も感想もわからぬまま、私は雑にしゃべり続けた。

そしてある日かかってきた電話で、私は疲れてしまって、黙った。沈黙が続く。それまでの私は空白を埋めて会話をしなければ、と必死だったのだが、今風にいえば心が折れたのだ。手紙にしてほしいという要望は聞き入れられず、時間帯も不定期で、とうとう黙りこくることになった私を家族は心配した。親が「代わろうか?」と提案するくらいだった。30分か1時間か経った後、「何もなかったら、切るね」と告げて、私はそっと受話器を置いた。心底疲れていた。

その後は親が電話に出てくれて、「今はいない」「手が離せない」などで居留守を使った。当時の、今よりもだいぶ純粋だった私は、居留守でさえも重圧に感じた。もはや電話の鳴る音は恐怖につながってしまっていたのだった。

どれくらいの時間が経ったのか、電話は止まった。手紙も届かない。私はほっとしながら少しずつ彼女のことを忘れていくのだが、年始には殴り書きのような年賀状が来た。母親に相談して、返信をしないことにした。それから何年か、年賀状は続いた。彼女の名前は忘れたけど、彼女が当時住んでいたであろう町の名前は今でも覚えている。高校に入ってしばらくして、年賀状は途絶えた。

意図がわからず、自分の意思も通じない相手とのコミュニケーションはそれが初めてだった。それから何年かして、いわゆる「めんどくさいと仲間内から思われてしまっている人」のことを何人かで悪く言うとき、私は悪口に参加できなかった。いい子ぶりたいのではなく、意思の届かない話をすることそのものが苦手になっていたのだった。話しても通じない人の相手になるのがどれだけの恐怖感になるか、そして、いつまた年賀状が届くのかわからない。

今振り返ると、「知らない人と話す」というシチュエーションでこのときの影響がちょいちょい残っているな、と感じることがある。情報は伝えるけど感情は伝えないようにうっかりしてしまう。知らない人と間合いを詰めるのに苦手意識があるのも、おそらく「沈黙の電話」がきっかけなんだと思う。彼女は私より一つ上のはずだった。今も記憶している町にいるのか、何かの事情で町を離れたのか。名前を知らず、恐怖のあまり年賀状をすべて処分したため、手がかりはもう何も残っていない。