Really Saying Something

雑文系ブログです。

目指せ千六本

「迷い」と「決断」、というテーマで何を書くかしばし考えた。考えて思ったことは「私、そんなに人生迷ってないな」ということだった。

常に「決断」しかない。迷うことといえば謎の交通標識に出くわして「いつ進めばいいんだろう」と悩んでクラクションを鳴らされてしまったことくらいしか思い出せなかった。よく「決断するのが仕事」というフレーズがビジネス書に出てくるけど、もし人生が仕事だったら私は相当優秀な方だと思う。人生は仕事じゃないのでそううまくはいかないんだけど。

誰かに何かを相談するのがとても苦手で、それはたぶん生育歴に関連していると思う。私は長女として生まれたが実質長男の役割を担っていて、私以外の家族はほとんど「末っ子体質」だから、私が真っ先に頼られることになる。そうなると親にお伺いを立てることはほぼない。自分で人生ゲームの駒を前に進めるしかない。

20年以上経ってもまだ印象的な出来事として記憶に残っているエピソードがある。運転免許を取る時に、家から通える自動車学校2ヶ所で検討し、誰にも何も言わずに申し込みに行き、費用はお小遣いを貯めたりバイトで稼いだりして工面し、2段階目(当時)で紆余曲折あってやっと免許証を手にして、バイト先で雑談のつもりで話したら、「その自動車学校なら私が通ってたから紹介で少し安くできたのに」とパートの方に残念そうに言われた。私は大変驚いた。自動車学校に通うことをいつどのタイミングで雑談にのせればよかったのだろう。今でもよくわからない。好意は大変うれしかったけど、どう返事してよいのかわからなかった。

高校も、大学も、就職先も、全部自分で決めた。人生でいえば大きなイベントである結婚ですら迷うことはなかった。断るか断らないかの二択を提示された時、私は断らないという決断を即座に下した。all or nothingすぎる。その相手となった夫は「常に殺るか殺られるかのようだ」と私を評したことがある。

そんな私も年を重ねてやっと迷いが生まれるようになった。正確に表現すれば、即座に後悔しない決断をすることが難しくなった。年を取ると選択肢が狭まるとよくいうけれど、私にとっては全く逆で、取りようのある選択肢がじりじり増えていってがんじがらめになっていく。どれを選んでもバッドエンドということがわかっていながら選ばなければならない時もある。さすがにそういう時は迷った。自分の持ち駒の動かし方について夫に意見を聞くようになった。圧倒的成長だ。圧倒的当事者意識だ。

つまりは「決断してばかり」の人生は、当事者意識が薄かったと言えるのかもしれない。どんなに雑に決めても後悔する理由は存在しなかった。人生に参加していなかったのだから当然だ。人生に参加していると自覚して初めて「迷い」が生まれたような気がする。残り何十年かわからないけど、こうして迷い続けていくのだろうか。もっと大根の千六本のようにさくさくと切っていきたいものなのだが。

#「迷い」と「決断」

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