Really Saying Something

雑文系ブログです。

自分を結婚させることについて

記事タイトルはこちらの匿名ダイアリーから。思考の起点がこの記事だっただけなので内容はそのうちずれていくかもしれません。週末の夜はだらだら文字を打ちたくなりますね。

周囲から「性格的に結婚しなさそう」と思われていた私が最終的に結婚の方向へ足を向けたのは「5年付き合ったのだから責任を取らねば」という気持ちが原点であり、そのタイミングで家庭環境に変化があったとか、さらにそのタイミングで当時恋人だった夫が「チャンスだ」と思ったとか、それらを経て結婚しようという依頼を受けた(依頼なのか?契約の締結?)から、というのはまあまあタイミングに依存した話であって、よくある「結婚はタイミングだよ」というつまらないフレーズにまとまりがちである。

「責任を取らねば」と感じた私は、甘さのかけらもなく「私でいいのか」「自分は子供を持つことに消極的だがどうするか」「こういう事情a、b、cなどがあるがそれはよいのか」などを質問した上で合意した。相手は私がかなりめんどくさい性格なのをまあまあ見越しているのでそれなりに回答したりあしらったりしていたように思う。

私が結婚するにあたって一番の懸念事項であり、10年以上たった今でも懸念事項であり続けている「毎日一緒にいて会話は尽きないのだろうか」ということについては、意外なほどになんとかなっている。テレビを見て感想を言うだの互いの仕事について話すだの、猫の動画がかわいいだの趣味の話だの、よくしゃべる方ではないか?と思っており、先方もそれを望んでいるので、需給はマッチしていそうである。

こうして「自分を相手と結婚させる」ことが不思議だった私は徐々に「既婚の自分」に慣れていき、こんなもんでいいっぽいと学んでいくのだが、それでも「なんでこの人とこうして一緒に住んで暮らしてるんだっけ?」という疑問が数日に1回出てくる。それは全部うっちゃってなかったことにしたいとか、「この人じゃない人がどこかに……」とかではなく、至極素朴な、自分に対する疑問だ。プライベートでいろいろあるたびになんとか共に乗り越えてはきているものの「同志」なんていうほど志は同じじゃなさそうだし、「パートナー」というほど手に手をとる感じもなく、ただ夫と妻(ヨッメ)としている、ある、おる、という感じなのに、既存の社会のくくりの中で生きている。非常に不思議だ。その不思議さは「なんでこのお父さんとこのお母さんの間に生まれてきたのだろう」と幼稚園の時に考えた頃からあんまり変わっていない。わたしの意識はどうしてこの顔、この身体に入っているんだろう?

さすがに交際開始から19年くらい(米同時多発テロが基準)たつので「結婚」という話を自分のこととして考える機会が減ったので、久しぶりに思考をこねこねしてみた。思い出さないと忘れていくものだなぁ。