Really Saying Something

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本当のことは言わない

小さい頃から嘘をつくのが苦手で(嘘で得られる利益より嘘がばれた後のつらさの方がいや、というのが大きくて)、何か不都合なことや、言うとややこしいことになりそうなことは沈黙を守る癖がついた。そのことは以前にも書いた。

言葉が足りないことは嘘ではない - Really Saying Something

高校に入った頃、思ったことをそのまま口にしてみてもいいのでは?とふとなぜか思った。そう思った瞬間を今でもよく覚えている。結果、自分がいかにひどい、雑でデリカシーを欠く人間であるかが自分の言葉を通じてありありとわかり、私はそれらを表に出さないようにすべく、以前と同じく、自分の意見を表明しなくてよさそうなときにはなるべく沈黙を選択するようになった。

そうはいってももう社会というものと対峙しなくてはならなくなる年齢になってきていたし、関わる人々の数も増えていくので、うまく本音と建前を使い分けないといけない。本音を出せば失敗する。だから建前でなんとか穏便に切り抜ける。そうやって過ごした。本音を別の理由でデコレートして提示すればいいんでしょ、デコレーションの方しか見てないでしょ。そうやってひねくれた、ねじくれた人間になったという見方もできるし、火の粉をかぶらないように工夫することができたともいえる。いずれにしても私にとって「本来考えていること」は無用の長物だった。誰もそれを必要としていないのだから。

何回か、「きちんと何でも相手に話せるようにならねば人間として欠陥がある」といきなり性格の矯正を試みたこともあるし、とにかくなりふり構わず自分の欲求をストレートにぶつけないといけないときもあった。うまくいくときもあったし、うまくいかないこともあった。そのときの判断が何年か後に「結果としてはよかった」ということもあった。

自分だけが出せる解はないのだ、やることなすこと……というよりはベースの考え方が極端すぎるのだ、という一定の結論を得られるようになるまで、だいぶかかった。今でも「自分が本当に考えていると思っていること」に対していったいどう接するのが中庸で適切なのか、あんまりよくわかっていない。ある程度「普通」を身につけたと思うと、そうではなくならざるを得ない出来事がやってきて(年齢が年齢だけに仕事以外にいろいろあるのだよ)、大変めんどくさい。

己の意見表明の方法というものについて青臭く考えている間に、インターネットというものが発達して、情報をどの程度出せばいいのか、何を見せると何がわかるのか、を知るようになる。さらに、玉石混淆ではあっても、自衛のための知識が手に入る。ますます「自分の考えを適切な粒度で開示する」のが苦手になり、ついでにうまくもなった。苦心して適応したら逆にうまくなったのだから不思議なものだ。

そうやって適応を続けようとしてきた結果、周囲の人にも恵まれ、ふらっとお酒の勢いで言ってみたくなってぐだぐだと話したことを大人っぽく受け止めてさらっと流して笑ってくれる人たちもいて、大変楽になった。大人になるとはこういうことか、と思った。何かを言わずにいるよりは言い方を工夫して言った方がいいのだ、とまで信じられるようになった。

楽になった日々の中にときどき、何かの影がさす。そういうときに「本来考えていること」が無用の長物であることをふと思い出す。誰にも価値を与えないもの。本当のことは、家族にも、夫にも、誰にも言っていない。