Really Saying Something

雑文系ブログです。

なつやすみのおもいで

anond.hatelabo.jp

この匿名ダイアリーを見てふと思い出した。小学校や中学校における夏休み明け、割とドラマチックなことが多かったような気がする。

例えば別のクラスの人が突然海外に行ってしまったりとか、
誰かの名字が変わっていたりとか、
引っ越ししていたりとか(学区内でも驚く)、
服装がすっかり変わっていたりとか、
誰かと誰かが付き合ったり別れたりとか、
突然誰かがいなかったりとか(転校)。

もちろんこれらは当時児童・生徒だった自分たった一人から見た事象で、個人や家庭それぞれに事情はあるのだし、それは案外身近なものだったりするのだ、ということを身にしみて感じるようになるのはずいぶん先の話である。

幼稚園の時には、同級生(?)が一人、病気で亡くなった。さすがに古い思い出なので夏のことだったか実は秋だったか記憶が定かでないが、ごく普通に登園していた子が徐々に来なくなり、体育室の全体集会で「◯◯さんが亡くなりました」のような告げられ方をして、キリスト教系列の幼稚園だったので追悼のためのミサが行われた。だからずいぶん前のことなのに覚えている。

趣味が(を)増えた(増やした)

唐突ですが趣味の話です。

観る将(将棋)

主にABEMAの将棋チャンネルを見ることが増えました。

小さい頃からなんとなく将棋の世界があることは知ってはいたのですが、最近になって積極的に。きっかけは加藤一二三九段、間接的に藤井聡太二冠の存在と勝ちっぷり、それとコロナ禍によるタイトル戦のスケジュール過密、半年間にわたるAbemaTVトーナメント、と続いたことですかね。

加藤一二三九段の引退の時はユリイカを買って読みました。

先崎学九段の『うつ病九段』もたまたま読みました。

(文庫化されてた!電子書籍もあるよ)

そんなこんなでうっすら興味があったものが急浮上しまして、先日の王位戦第四局は本当に固唾を飲んで見ていました。私が書くよりはこれを読んでくださいぜひ。(勝手に宣伝)


オールドレンズ

こちらは降って湧いたようになぜかやってみたくなったもの。古いレンズを今のカメラにつけて写真を撮る、という話自体はいろいろなカメラ(レンズ)クラスタの方々のブログなりTwitterなりを読んで知っていましたが、比較的近所にあるカメラ専門店にたまたま、本当にたまたま、その時に何かで見て記憶に残っていたAi Nikkor 50mm f/1.2があって、お手頃価格だったので購入したのでした。なぜかその後にAi Nikkor 28mm f/2.8とか買ってます。どうしたのか。

Nikon デジタル一眼レフカメラ D750

Nikon デジタル一眼レフカメラ D750

  • 発売日: 2014/09/25
  • メディア: エレクトロニクス
(うまく当該レンズのAmazon商品が出てこないのでボディを紹介)

まだまだ撮影回数が少ないので「撮るのが趣味」とは言い切れませんが、明らかに沼に片足の足首くらいまで入ってますね。

ついでに自分の興味の赴くままに買い集めたカメラ・レンズを整理し始め、今の時代のレンズはもう少し系統だったラインアップにしようと画策中です。

どっちもきっかけはコロナ禍

ABEMAの将棋チャンネルは、将棋を見るという目的のほかに、「体調が良くない時のBGM」の役割もしばしば果たしていました。頭が痛くて寝込んでいる時に、うるさいチャンネルは頭に響いていやだけど何か音を流しておきたい、音楽は耳が反応するのでいやだ、という時にぴったりだったのです。そこで将棋チャンネルの存在を知ったから、昨今のコロナ禍で家に居ざるを得ない時にもうまく「観る将」にシフトチェンジできた、という感じでした。

オールドレンズの方は、これまたコロナ禍でのんびり写真を撮れる機会である「旅行」「行楽」が封じられた結果、普段のレンズではなく「近所でも視点が変えられるレンズ」に対する興味が生まれたように思います。ぱきっときれいに写すというよりも、ボケボケで、一時期流行ったトイカメラのような風味が出るレンズ。何かアップで撮ればそれっぽい(?)雰囲気になるので、あとは先人の作例を見ていろいろ試そう、からの「家に居続けるのだるくなってきたけど外に出るのもおっくうになってきて何にもしたくない」気分の解消になりつつあります。

それでも本来の趣味である「旅行」「競馬観戦」「その他スポーツ観戦」はできるような雰囲気ではないし物理的にも開催されてないものが多いです。どうしたってこれまでのような生活とは程遠いのですが、もし今後無観客競馬が何らかの形で解消される機会があれば、記念に競馬に使えるようなレンズを1本買おう、と思っています。

自分を結婚させることについて

記事タイトルはこちらの匿名ダイアリーから。思考の起点がこの記事だっただけなので内容はそのうちずれていくかもしれません。週末の夜はだらだら文字を打ちたくなりますね。

周囲から「性格的に結婚しなさそう」と思われていた私が最終的に結婚の方向へ足を向けたのは「5年付き合ったのだから責任を取らねば」という気持ちが原点であり、そのタイミングで家庭環境に変化があったとか、さらにそのタイミングで当時恋人だった夫が「チャンスだ」と思ったとか、それらを経て結婚しようという依頼を受けた(依頼なのか?契約の締結?)から、というのはまあまあタイミングに依存した話であって、よくある「結婚はタイミングだよ」というつまらないフレーズにまとまりがちである。

「責任を取らねば」と感じた私は、甘さのかけらもなく「私でいいのか」「自分は子供を持つことに消極的だがどうするか」「こういう事情a、b、cなどがあるがそれはよいのか」などを質問した上で合意した。相手は私がかなりめんどくさい性格なのをまあまあ見越しているのでそれなりに回答したりあしらったりしていたように思う。

私が結婚するにあたって一番の懸念事項であり、10年以上たった今でも懸念事項であり続けている「毎日一緒にいて会話は尽きないのだろうか」ということについては、意外なほどになんとかなっている。テレビを見て感想を言うだの互いの仕事について話すだの、猫の動画がかわいいだの趣味の話だの、よくしゃべる方ではないか?と思っており、先方もそれを望んでいるので、需給はマッチしていそうである。

こうして「自分を相手と結婚させる」ことが不思議だった私は徐々に「既婚の自分」に慣れていき、こんなもんでいいっぽいと学んでいくのだが、それでも「なんでこの人とこうして一緒に住んで暮らしてるんだっけ?」という疑問が数日に1回出てくる。それは全部うっちゃってなかったことにしたいとか、「この人じゃない人がどこかに……」とかではなく、至極素朴な、自分に対する疑問だ。プライベートでいろいろあるたびになんとか共に乗り越えてはきているものの「同志」なんていうほど志は同じじゃなさそうだし、「パートナー」というほど手に手をとる感じもなく、ただ夫と妻(ヨッメ)としている、ある、おる、という感じなのに、既存の社会のくくりの中で生きている。非常に不思議だ。その不思議さは「なんでこのお父さんとこのお母さんの間に生まれてきたのだろう」と幼稚園の時に考えた頃からあんまり変わっていない。わたしの意識はどうしてこの顔、この身体に入っているんだろう?

さすがに交際開始から19年くらい(米同時多発テロが基準)たつので「結婚」という話を自分のこととして考える機会が減ったので、久しぶりに思考をこねこねしてみた。思い出さないと忘れていくものだなぁ。