何回か「会」にお邪魔させていただいたぶち猫さんが、『日々をたのしむ器と料理』(扶桑社)を上梓されました。おめでとうございます!
私から見たぶち猫さんは「キュートなのにヒールのある靴でてきぱき料理して写真も撮って暴力的な料理を出す」という、文字列だけではちょっとよくわからない感じなのですが、とりあえず食に関しては暴力的だと言い切って差し支えないでしょう。
その容赦ない食の暴力は、ぶち猫さんのブログ「ぶち猫おかわり」をぱっと見ただけではおそらくわからないのではないかと思います。穏やかに優雅に食を楽しみ、猫と暮らすブロガーの姿が描き出されている、きっとそう思うはずです。
『日々をたのしむ器と料理』に載っているレシピは、その多くが「2人分」です。2人分? 「会」を目撃したことがある方は、違和感を覚えるに違いありません。
例えばこちらをご覧ください。
銅蟲先生に差入れ頂いた大玉すいかやたまたま前日に届いた箱一杯の牡蠣などもあったのですが
寄稿記事の紹介の中に「箱一杯の牡蠣」とその写真。今でこそ「牡蠣を缶で買う」「肉をkg単位で買う」などの概念を身につけた私ですが、お腹いっぱい餃子を食べた後に出てきた牡蠣にはさすがに仰天しました。美味しくいただいたのですが……。これは食の暴力と表現して差し支えないのでは?
ところでこの本の主題のひとつは「うつわ」です。スーパーやオリジン弁当のお惣菜をそのままプラ容器から食べる、下手するとレシピの「まずオーブンを200℃で予」くらいですべてを放り出してUberEATSで近所のマクドナルドからフィレオフィッシュのセットとアップルパイのバリューセット(うまい)を注文する私にとって、ぶち猫さんの器の世界観は、到底たどり着ける境地ではなかったのでした。皿? 日本三大奇祭「ヤマザキ春のパン祭り」で死ぬ思いをして集めた白い皿があるけど?程度の認識だった私に、野田琺瑯の中に納まった肉の美しさや、ショットグラスで提供されるオードブルのスープの美味しさを教えてくれたのはぶち猫さんだと言っても過言ではありません(大袈裟に書いてるんじゃなくてほんとに!)。
食にも器にも意識が低いどころか混濁、いや意識不明の私に、「そういう世界がある」という道を見せてくれたのがぶち猫さんの食の暴力であり、盛り付けの美しさであり、写真をきれいに撮るためにひたすら努力する姿であり、激務の合間に想像の斜め上を行く料理を作ってしまうその器用さと真面目さであることは、断固として主張していきたい事実であります。
だからといって、意識不明の私に「こうすれば優雅な器を使う丁寧な暮らしが送れるのよ〜」という無神経さはそこには1mmたりとも存在しません。あるのはおもてなしの心、それだけなのです。他者にだけではなく、自分自身にも向けられているおもてなしの心。自他の境界を区別しておもてなしをし続けるその姿勢が、私を尊敬の念へと向かわせるのです。
『日々をたのしむ器と料理』を私が読んだからとて、突然器と盛り付けに凝る人間へと変貌を遂げることはないと言い切れます。しかし、圧倒的な食の暴力と、おもてなしの繊細さ、この両極端な要素を併せ持つぶち猫さんへの憧れは増すばかりでありましょう。
とりあえず最近プライベートな事情により不義理をし続けてしまっているので、機会がありましたら、牡蠣かすいかか、暴力的なサムシングを携えて「会」にお邪魔したいと思っております。その前にまずレシピを読むところから始めたいと思います。
- 作者: ぶち猫
- 出版社/メーカー: 扶桑社
- 発売日: 2019/03/17
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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