Really Saying Something

雑文系ブログです。

グローバル G-46 と「聡明な女は料理がうまい」

今週のお題「私の年末年始」

YOSHIKIN | 製品紹介:GLOBAL G-46
GLOBAL 三徳 刃渡り18cm G-46

昨年グローバル G-46をプレゼントしてもらって、なかなかおろせずにいたのですが、やっと今日使いました。キャベツをざくざく切ることができました。


聡明な女は料理がうまい

桐島洋子著「聡明な女は料理がうまい」を大みそかに衝動買いしました。著者の代表作として書名は知っていたものの読む機会はなく、本当にたまたま店頭で見かけて、なんとなく読んでみようかなと。

1976年初出とのことなのですが、75歳のご本人があとがきで「口惜しいほど元気で冴えていて老いやズレを全然感じない」と書いていらっしゃるそのままに、本当に全く2014年とずれがないように思います。そして書いてあることがいちいち自分の現況を指摘しているようでおもしろい。

まず料理とは「果敢な決断と実行」の連続である。

「大胆で柔軟な発想力」があれば、たかが一年三百六十五日ぐらい、毎日新しい献立のアイディアがメラメラわきすぎて困るほどわいてくるだろう。

生鮮食品の値動きははげしく、よくさがせば、いつでも必ずといってよいほどなにかしら安い物が見つかる。それを発想の原点にして献立を考えればよいのに、本やテレビに教えられた献立の材料を、その指示どおりに集めてまわろうとする。

言葉にも月並みな決まり文句というのがある。新聞によると商売繁昌の業者は必ず「うれしい悲鳴をあげ」、判決を聞いた犯人は「ガックリと肩を落とし」、寒い日には、街行く人が「コートの衿を立てて足ばやに歩く」のだ。こういうあまりにありふれた紋切り型の表現がいっぱいあって、器用な人ほどかえってそれを右から左へスイスイ気軽に使ってしまう。

おびただしい言葉があるように、おびただしい食物があり、それをどう選んでどう組み合わせればいちばんおいしいかと、こまやかに考え、くふうするのが料理というものである。
もちろん、何もかも初めから自分で考え組み合わせろというわけではない。歴代のすぐれた作家や詩人たちがすでにさまざまな言語表現を試みて不朽の文学作品をたくさん書き残してくれたように、先輩料理人たちもさまざまな料理法を私たちに伝えてくれた。

ひとりでもおしゃれをする心意気で、ひとりでもこまめに料理をしよう。昼間、あるいは夜中のスナックがたとえ孤独なものだろうと、それをひっそりとたいせつに楽しむデリカシーがほしい。ひとりだからただおなかを張らせばいいということで、インスタントやレディメード食ばかりとなりふりかまわずナレ合っていると、舌ばかりか、すべての感性が貧しく薄っぺらなものになっていくだろう。

などなど、書き抜きたいところがやたらとたくさんあるのでこれくらいに留めておきます。とにかく料理は表現であり、創意工夫で楽しむべきものである、というのをさまざまな方向から書いていて、料理ができない人を突き放すのではなく、かといって甘やかさず、過度に励ますこともなく、社会やコミュニケーションや恋人の話を混ぜながらぽんぽんと進みます。

料理がある程度できる人向けだし自分にはとてもとても、と思うような(少なくとも自分にとっては)高度な話も多々あるように思うけれど、以下の文で受け取る印象ががらりと変わりました。

私が書いている料理も、ほとんどはおそらくだれでも知っているようなものばかりで、事あらためて作り方など書くのは気がひけるのだが、たいせつなことは何よりも作る心にあるのだから、その“作る心”をいささかでも励ますためと思って、悪びれずに書きつづけることにする。

と思ったら解説で松浦弥太郎さんも同じところを引いていたので、この本がいいたいことは「作る心」なんだなぁ、と納得。70年代のベストセラーだったこの本が、当時どのように受け止められていたかすぐには推測できないけど、2014年の自分にはちょうどよい視線の高さでありがたいです。