Really Saying Something

雑文系ブログです。

#お前らがV6ファンになった理由を晒せ

ジャニヲタであることをあまり隠さずに日々暮らしているのですが、あまり表立って表明する機会がないせいか(いやだいぶしてると思うんだけど……足りないのかな……)、V6ファンなことあんまり言わないですよね!というご指摘をいただきました。そこで、「#お前らがV6ファンになった理由を晒せ」というハッシュタグに敬意を表しつつ、V6ファンになった理由を書いてみたいと思います。

前提:私はウッチャンナンチャンのファンである

唐突に何を言うとお思いでしょうが、私がインターネットに本格的に足を踏み入れたきっかけはウッチャンナンチャンのファンサイトを読みまくる、というものでした。1997年~2000年くらい(だいぶ昔になってきましたね!)、ちょうどウンナンが「やるならやらねば!」の不幸な事故を乗り越え、「ウリナリ!!」「気分は上々。」「桜吹雪は知っている」「炎のチャレンジャー」「特ホウ王国」「笑う犬の生活」「ホントコ!」「お笑い風林火山」「いろもん」(放送年の順不同)などレギュラー番組が多くなっている頃です。あーこの頃毎日テレビ見るの楽しかったなー。ブログというシステムもまったくない時代ですから、HTMLをメモ帳で書いたり、ホームページビルダーで作ったり、そういう牧歌的なファンサイトがあちこちにあって、相互リンクをたどって番組の感想などを読んでいました。

まだまだネット人口が少ない時代、掲示板などに書き込みをすると、交流が自然と生まれます。毎日見るようなサイトの管理人(言葉が懐かしすぎる)さんとはお互いに認識し合う仲となり、そのうちICQCGIチャットなどで話すようになります。

なぜかわかりませんが、そのうちの何人かが、突然(というふうに私には見えました)V6に興味を持ち始めました。シングルでいうと「GENERATION GAP」「翼になれ」あたりですかね。その頃放送されていたV6のレギュラー番組「学校へ行こう!」などの話題が、ウンナンの話題に混じるようになりました。いや本当になぜかわからないんですが。

ウンナンが好きで、ウンナンの番組を見ているくらいなので、基本的にはテレビっ子。なんとなく「学校へ行こう!」を見るようになります。

下地としてのジャニーズタレント

ところで私はジャニーズに所属するグループが結構好きです。

好き、といっても「割と番組見てる」くらいの好きから「ファンになる」くらい好きまで濃淡はさまざまです。一番古いのは「たのきん全力投球!」を好んで見ていたという事実。個別の田原俊彦近藤真彦野村義男に対してではなく「たのきんトリオ」というまとまりが好きだったのでした。Wikipediaによると放送期間は1980年10月~1983年3月、お昼に見ていた記憶があるので実際の視聴期間は1982年4月~1983年3月。さすがにまだ小学校低学年で「はまる」感じはないですね。

個別に語り出すときりがないのでもう少しスピードを上げますが、小学生のときに「ザ・ベストテン」「ザ・トップテン」「夜のヒットスタジオ」などをよく見るようになります。さらにドラマも見ます。その辺りから若手芸能人が歌い、踊り、ドラマに出るというサイクルを目の当たりにするように。ジャニーズについてはたのきんトリオが「3年B組金八先生」に出演、その後シリーズの生徒役として薬丸裕英森且行古屋暢一風間俊介亀梨和也など(もっとたくさんいますがきりがないので割愛)所属タレントが出演し、それが芸能ニュース化することが増えます。実は森くんと一緒にV6長野博も出演していましたが、当時それを知る由はありませんでした。

ドラマの流れとはまったく別に、少年隊、シブがき隊、男闘呼組の楽曲、ダンスにも歌番組で接する機会が多くなります。それぞれ「特別にファン」というわけではなかったのですが、曲がヒットすれば歌えるようになるし、ランキング番組でも上位常連となるので、単純に視聴機会が多いのですね。その中でも、少年隊の歌とダンスには非常に魅了されました。男闘呼組はデビュー前に「欽ちゃんのどこまでやるの!?」に出演していたこと(当時の欽ちゃん冠番組が好きでした)、歌が好みだったことから、割とよく見ていたように思います。

その流れで、小学校高学年に光GENJIの大ブームを迎えます。あまりの人気ぶりに、どうも引いてしまい、光GENJIは楽曲は覚えるものの「好き」とは言い難い状況でした。でも今振り返ると、ローラースケートをはいてあのフォーメーションできるのってすごいですよね。歌はともかくダンスはすごかったのに、人気が先行しすぎて不幸だったなぁ、と大人になってから思いました。

その光GENJIのバックで踊ったりスケボーに乗ったりしていたグループが「スケートボーイズ」で後のSMAPになります(だいぶはしょってます)。さらにその後、バックダンサーとして踊っていたグループ「平家派」に、この記事の主役であるV6の坂本昌行長野博、井ノ原快彦がいたわけですが、これまた当時それを知る由はありませんでした。いや正確に言えば、アイドル雑誌で目にしてはいたはずです。それがたとえどんなに小さい記事であっても。

SMAP、そしてそのちょっと後に登場するTOKIOSMAP中居くんと同じ番組に出ていたKinki Kidsなどなど、後々V6とからんでくるグループもたくさんいるわけですが、本当にきりがないので項目を改めます。

V6のデビュー、ウルトラマンティガ学校へ行こう!

この調子でやっているときりがないので、時代をすっとばしてV6がデビューした1995年11月1日。「バレーボールワールドカップ」のイメージキャラクターとして、「MUSIC FOR THE PEOPLE」でCDデビューしました。当時私は大学1年生。歌番組の終了、アイドル氷河期など、ジャニーズタレントとはちょっと縁遠い環境になっていた中の新しいグループのデビューに、心躍ることはありませんでした。当時バレーボールのコートの中で「MUSIC FOR THE PEOPLE」を歌う彼ら(というかその演出)に批判が集まったことを覚えていますが、「バレーのキャラクター無理矢理やってるのにかわいそうだなー」という感想しかありませんでした。連動したドラマ「Vの炎」も見ていませんでした。

翌1996年9月、“平成ウルトラマン”として「ウルトラマンティガ」の放映が始まります。主役のダイゴ(ティガ)を演じたのはV6長野博。主題歌はV6の「TAKE ME HIGHER」(4枚目のシングル)でした。2枚目の「MADE IN JAPAN」では「日本製ってなんだよ~」なんて思い(正直今も思ってる)、3枚目の「BEAT YOUR HEART」は覚えがなく、「TAKE ME HIGHER」で自分内露出が突然増えた、という感じでした。しかしここでもまだファンにはなっていない。長期レギュラー番組となった「学校へ行こう!」がスタートしたのは1997年11月、番組開始もなんとなーく覚えていますが、このときもまだファンではない。

V6というのは不思議なグループで、突出してグループとしての人気があった!という時期が非常にわかりづらいように思います。長期レギュラー番組となった「学校へ行こう!」は比較的高視聴率の番組として続いていましたが、V6が人気というよりは、出演する素人の方々(たぶん素人)、企画、という面で人気があったんじゃないかと思います。

そして、ウンナンファン仲間の影響でその「学校へ行こう!」を見るようになったのは、番組がスタートした1997年11月からざっくり1年遅れの1998年秋のことでした。デビューしてから3年が経っています。

そして坂道を転げ落ちて沼のほとりへ

やっとファンになるきっかけのところまでやってきた!

ウンナンファン仲間とチャットでV6について話すことが増えました。「学校へ行こう!」のあのコーナーはおもしろかった、あの瞬間がよかった、そういう話をしていると、自ずとじっくり見るようになるものです。好きだったコーナーといえば「GO森田」「体当り戦士少年オカダ」「大袈裟先生」「マーサ坂本の愛の個人授業」「どこ行くんですか?ゲーム」あたりでしょうか。だいたいのコーナーはV6のうち2人が担当するのですが*1、それらを見て6人それぞれの個性がなんとなくわかる仕組み(?)になっていたのもうまくいったのか、徐々に坂本・長野の2人に注目することが増えました。ファン仲間も坂本ファン・長野ファンになっていきました(おそらくこれはたまたま)。

そんな折、といっても見始めてからせいぜい2ヶ月以内の話ですが、11枚目のシングル「over/EASY SHOW TIME」(1998年11月11日)が発売されました。両A面で、「over」はV6の年少組であるComing Century(カミセン。森田、三宅、岡田)が出演したドラマ「PU-PU-PU-」の主題歌、「EASY SHOW TIME」は「学校へ行こう!」のテーマソング。このとき、年長組である20th Century(トニセン。坂本、長野、井ノ原)と、本当にたまたま露出の仕方が違いました。カミセンに注目してもよかったし、トニセンに注目してもよかった。「over/EASY SHOW TIME」を初めて購入し、「over」の楽曲そのものも好きだと思った自分は、サビを歌うトニセン*2の方を向いてしまったのです。

ちょうど1998年末、私は卒論提出を控えていました。何度か別のところで語ったので省略しますが、卒論は本当に本当につらかった。そんなときに「over」の歌詞はずいぶん心にしみました。たぶんそれぞれに自分の深いところに突き刺さる歌というのはあるものだと思いますが、私の場合はトニセンが作詞をしたこの曲が、ファンになったという意味でも、人生でつらかった時期を支えてくれたという意味でも、本当に特別でした。坂本くんは6文字しか作詞しなかったそうで、当時ファンサイト(の一部)では「現実はツライ」「がむしゃらに」「あふれる涙ぬ」では?なんてことを言っていたのもいい思い出です。

この頃半分V6に足をつっこみかけていた私は、過去のアルバムを買っています。1997年8月発売の2ndアルバム「NATURE RHYTHM」に「TAKE ME HIGHER」のリミックスバージョンが収録されており、ストリングスがちょっと強調された好みのアレンジで、何度も聴いたものでした。「TAKE ME HIGHER」からウルトラマンティガに入るのなんて本当にもうあっという間で、ティガのVHSテープをレンタルして前半だけ見ました*3

学校へ行こう!」の大袈裟先生での破天荒ぶりが自分内ヒットだったこともあって、V6のファンになるのとほぼ同時に、長野くんファン*4になったのでした。優しそうな顔をして実は割と腹黒い、という点も好きなところです。ウンナンの内村さんにちょっと通じるものがありました。

ファンだという自覚が生まれたのはこの頃ですが、それはまだ、深い深い沼の淵に立ったというだけなのです。

沼にはまる。それはもうどっぷりと

大学を卒業して社会人になり、ちょっとは自由になるお金が生まれました。私が何をしたかというと「コンサートツアー行脚」です。それと同時に、テレビ番組チェックをしたり、雑誌を買ったりと、さまざまな角度から観察しはじめました。もうそろそろファンになったきっかけは晒し終わったので収束させたいのですが、思い出深いエピソードだけちょっと書いておきたいと思います。

長野くんのジャニーズJr.、平家派 、J-Eleven、ジャニーズシニア(グループ区分は割と適当ですが)時代については、すべて後から知りました。不思議なもので、SMAPTOKIOについては自らの体験から、KinKi KidsについてはSMAPファンになった妹経由で見た「少年倶楽部」「アイドルオンステージ」などで知識を得ていたものの、その隙間にすっぽりはまっていた坂本・長野については観測範囲にいなかったのです(バックで踊っているのは見ているはず)。目立つJr.だった井ノ原・森田・三宅についてはわかっていましたが、興味はありませんでした(断言)(ごめんなさい)。岡田が「元気が出るテレビ!!」のジャニーズ予備校を経て事務所に入ったことは知ってはいましたが、後に伝説として語り継がれる「とりあえず上京しろと言われて上京してみたらデビューしてMステに出ていた」という件については全然知りませんでした。

CHA-CHAというグループ*5についてはファンになり、コンサートにも行ったことはあったけど、ジャニーズについては流儀がまったくわからない。そこで大変参考になったのが、ファンサイト(あるいは日記サイト)の数々でした。文才あふれるサイトで、コンサートレポート(コンレポ)を読んだり、自分は見られない地方ローカルの話題を知ったり、自分がファンになる前の情報をキャッチしたり。V6長野くんのファンの方が北海道にお住まいで、「水曜どうでしょう」のテーマ「1/6の夢旅人」がトニセンの歌う「always」として提供されたことで、水どうファンからトニセン(V6)が敵視されてしまった、というつらい話を綴っていたこともありました。また、この頃コミケでV6関係の同人誌を買い、コンレポや名言や名シーンを本で読むという体験をしたことも、その時点でのよい下地となりました。

20th Century単独のコンサート(トニコン)のチケットを取れるだけ取り、北は大宮(それ以上北はチャレンジしなかった)、南は大阪まで飛び回っていたのもそのあたりです。V6のコンサート(Vコン)もやれるだけやったけど、記憶にも思い出にも残っているのはトニコンの方です。甲府まで見に行って帰りにほうとうを食べたり、大阪に見に行って夜行バスで帰ってきたり、全然よく知らない浜松に降り立ってみたり、いろいろな経験をしました。東京国際フォーラムで見た千秋楽は今でもしっかり覚えている! 1つ前のツアーのラストシーンを再現しつつそれに新しい演出を加えて、ファンもだいたいみんなわかっててのっかる、という一体感を味わったのもこの辺です。CD、テレビ、コンサート、そしてトニセンがそれぞれ出演する舞台と、世界がどんどん広がりました。

世界が広がったといえば、少年隊のミュージカル「PLAYZONE」(通称:プレゾン)もトニセンが出演していることを理由に見に行きました。少年隊ファンの皆さまからは「ただでさえ取りづらいチケットがますます取りづらくなる」と一部で不評でしたが、幼い頃テレビの歌番組でかっこいいと思ってきた少年隊の本当のかっこよさ、を存分に味わえたと思っています。錦織くんのダンスの素晴らしさ! V6は比較的ジャズダンスの流れをくむダンスの振り付けが多く*6、森田・三宅はヒップホップ系が混ざっている、という印象なのですが、少年隊はガチのジャズダンス系のダンスで、個人的な好みともあっていてとても楽しかったです。

プレゾンといえばかつてはTOKIOも出演していたことで有名ですが、今ではロックバンドもやる農家として知られるTOKIOのメンバー、割とダンスがうまいです。特に城島くん・山口くんはジャズダンス系のダンスがよい。城島くんの滑らかな動きとか本当に素敵です。Mステで、少年隊が歌う「湾岸スキーヤー」のバックダンサーにJ-FRIENDSTOKIOKinki Kids、V6)がついたことがあったんですが、トニセン+城島、山口の5人はバックとしての動きが完璧で、さすが平家派!!と感激しました*7。話がめちゃくちゃ脱線するんですけどMステで少年隊といえば、「情熱の一夜」で錦織くんが見せた、間奏でぐっとカメラを引きつけてばっ!!!!と後ろを向く瞬間が、本当に本当に夢に見るくらいかっこいいんですが、実家のVHSテープのどこかに眠っててたぶんもう傷んでて見られません。社会的損失だ。東山くんがSecret Agent「Secret Agent Man」で錦戸くんと一緒に踊って突然壁宙決めたときもいったいどうしたんだろうこの人とか思いましたけどね。いやV6の話でしたね。

環境が変わってリアルジャニヲタ活動は小休止へ

2004年に初めての転職をし、2007年末に大阪への引っ越しをし、2011年に東京への引っ越しをし……その合間合間でぽつりぽつりとコンサートに足を運んではいたものの、時間が思うようにならないため、そこにかける集中力は次第に減ってゆきました。コンサートに行くだけなら時間はあります。チケットの発売時期を予測し、発売タイミングを把握し、ファンクラブ経由の申し込みと一般発売を押さえ、席を知り合いと融通し合い、スケジュールをすりあわせ、会場まで出かけていく……それらには時間と集中力が必要です。お金だけで解決できる問題ではありません。年齢を重ね、経験や判断力を得る代わりに、がむしゃらに動くガッツと、とにかくチケットを手に入れるという情熱が、少しずつすり減っていくのです。自覚はしていましたが、悲しいことでした。あれだけ追い続けたコンサートの楽しさを体験する時間が、なくなっていく。

最後に見たコンサートは、グランキューブ大阪で見たトニコンだったかと思います。久しぶりのトニコンで、シングルも出て、それはそれはうきうきした気分で曲を覚え、昼と夜2回見ました。チケットを押さえてくれた友人には感謝してもしきれません。グランキューブの急な階段を下りながら、コンサートの内容を反芻し、帰途につく。やっぱりコンサートは楽しいです。うちわを振るのも*8、合いの手入れるのも、一緒に「WAになっておどろう」「愛のメロディ」の振り付けをやるのも、なぜかトニコンではいつも登場する「オリジナルの振り付けをその場で全員で覚えて踊る」も、いったん小休止して観客を座らせてイノッチが客席の照明をつける指示を出すのも、最後の最後に「俺たちV6!」って手をつないで一礼する6人を拍手と手振りで見ているのも、本当に好きです。でもたぶんもう、昔と同じテンションでコンサートを見ることはないんだと思います。それが自分でわかってしまっているので、もう一度ファンクラブに入り直して、もう一度自分の手でチケットを取ろうとする、というところまでたどり着いていないんだと思います。

コンサートには足を運んでいないし、執拗なエアチェックもしていませんが、今でもV6のことを応援していますし、ファンだな自分!と思う瞬間が多いです。最近の例でいえば、「あさイチ」に岡田が出演したとき、井ノ原とじゃれてるところとか、お互いに言及するところとか、やっぱりTwitterで実況せずにはいられない訳です。長野くんが世界へ出かけていって、なんかよくわからないけど激しく揺れる船の上で波に濡れながら後光が差しそうな笑顔になっているのを見ると、心の底から生きていてよかったと思う訳です。

幸いなことに、V6の6人はそれぞれレギュラー番組や舞台、ドラマなど、活躍する場があります。自分の生活の中で、ちょっとでも接点がある限りは、彼らを見て「V6がいてくれてよかった」「元気でよかった」「なんか疲れて顔色悪そうだけど生きててくれてよかった」と思うのだと思います。

私が20代前半でひたすらコンサートに通っていた頃、おそらく30代くらいのお姉さんたちが、濃く、存在感のあるオーラを放ち、コンサートの席で応援していたのを思い出します。きっとそのお姉さんたちは、トニセンがJr.だった頃(もしかしたら剛健コンビがJr.だった頃かもしれないけど)からずっとファンで居続けているのだと勝手に想像していました*9。私もそのお姉さんたちの年齢にとっくに追いつき、追い越しています。それくらいの、かつて自分が憧れた安定感で、もはや自分の中で“殿堂入り”したV6を、そしてメインでファンである長野博を、引き続き応援していきたいと思います。

(完)

*1:どこ行くんですか?ゲームは2人×3チーム。

*2:カミセンはサビではコーラス、Cメロは単独。Wikipediaより。

*3:後半にたどり着く前に疲れてしまった。ウルトラシリーズへの興味が薄めの自分にとって1年分は厳しい……。後に映画は劇場で見ましたが。

*4:「長野担」と表現するのが現在では適切かと思いますが、「担当」っていう言葉になじみがないので、「ファン」としました。

*5:勝俣州和さんが所属していた欽ちゃん関連のアイドルグループ。ジャニーズ事務所からは元少年忍者の中村亘利さん、田原俊彦さんのバックダンサーをしていた木野正人さんが参加していた。勝ちゃんが「歌って踊れてお笑いもできて、SMAP並みだった」というのは本当に本当の話なのだけど、何分昔すぎてもう当時を知る者は少ない……。

*6:その割にはデビュー後しばらくアクロバットばっかりやっていて、首を痛めたり骨を折ったりすることが割とあった。コンサートでも6人そろって高いステージからバック宙するとか、バラードの曲なのにやったら激しい振り付けとか、正直頭おかしいとしか思えない。

*7:あっ太一くんも平家派だった……ごめん記憶がない……。

*8:私は公式うちわをそのたびに買う派なので自分では作りません。

*9:実際ちょろっとそんな会話をしているのを耳にしたこともあります。