40代と宗教の関わりというテーマの記事を読んでいた。
で、以下のtweetをしたのだけど、
30代の後ろの方で「きっと私はこのままいくと精神的な拠りどころをなくす」と思って、いろいろ宗教(新興宗教含む)について調べた時期があったんだけど、軽い形でも宗教学の本などを読んだり調べたりしたので、40代の今も変な方には引っ張られずに済んでいる気がする
— toya (@toya) 2022年7月11日
↓なんと10年前の30代の私がそのことを別のブログに書いてくれていた!
なんでも書いておくといいことがあるものですね(定期)。
で、なんでもう1回書くのか(tweetの補足)
なぜ30代後半で「拠りどころがなくなる」と思ったか。
それは義父の葬儀(浄土真宗)を出す身となっていろいろ調べてそのバックボーンの複雑さを思い知ったのと、個人の宗教観を押しつけられることへの嫌悪感を抱いた、という2つの要素が大きなきっかけとなっている。身バレ防止のために詳細は省くけど、例えば立派な仏壇を処分しなければならない局面で「もったいないから引っ越し先に持っていけ」と言われるとか……*1。その時に「個人の宗教観というのはなんと曖昧なことだろう、そしてそういう人たちが社会を構成しているのに自分は何もわかっていなかった」と気づいた。
本当に何も知らなかったので、お寺さんにもお世話になったり、ネットで調べたりして、少しずつ対外的なお作法を学び、なんとか義父の死から最初の1年を乗り越えた頃に、宗教的なものごとがいかに世間に浸透しているか、よくいえば支えになっているけど悪くいえば無自覚過ぎる、ということがだんだん見えてきた。
自分の場合でいえばこんな感じ。「それって宗教じゃなくない?」というところにも宗教観は現れるのだなぁと感じた。
- 朝のテレビ番組の星座占いをなんとなく気にする
- 雑誌の星座占いのコーナーを読む
- しいたけ占いや石井ゆかりさんの占いのページを読む
- お正月には初詣に行く
- お守りを買う
- おみくじを引く
- 通りすがりの神社仏閣で手を合わせる
- お賽銭を入れる
- クリスマスにクリスマスっぽいことをする
- 言霊を信じる
- 因果応報の考え方をする
- 漠然と前世、今世、来世があるような気がする
- 死後の世界があるような気がする
神道も仏教もキリスト教もイスラームも、暦と連動する行事が節目節目にあるし、それは生活のためにも必要だった……という成り立ちの部分はわかるとしても、いくらなんでも我ながら節操がない。
上記に貼り付けたブログにも書いた通り、私の宗教の原体験はカトリックの幼稚園に通ったことで、三つ子の魂百までとはよく言ったもので、私は今に至るまでマリアさまのことはマリアさまだと思っており、マリアさまを軽んじる(既にここで宗教的な見方が出ますね)プロテスタントの教派にはなんとなくなじめずにいる。また、先ほど書いた通り仏教については「なるほど浄土真宗は合理的」と納得したこともあり、一番親しみを持つ宗派は「今は」浄土真宗だ。
そのため、主にカトリックと浄土真宗に関する本をちょこちょこと読んだ。たまたま特集されていた新興宗教に関する雑誌にも目を通した。カトリックについては上智大学のサイトにあったQ&Aがいろいろな疑問に一通り回答をしてくれていて、それもとても参考になった(今見たらページの置き場所が変わっていた)。
「宗教的に中立な見方」は存在しなくて、誰かしらがどこかの立場でしか宗教を語れないということに気づいたり、特にキリスト教においては洗礼を受けるか受けないかで不可逆なので(洗礼を受けたのになかったことにすることはできない)今の自分には洗礼後のキリスト教の姿は見ることができないと知ったり、広く浅くではあるけれど(そしてもっともっとたくさん読むものはあるけれど)いろいろなものをかいつまんで摂取することで、なんとなく宗教との距離の取り方がわかった気がする。
なんだかあんまりシャキッとしないブログになってしまったけど、昨日今日のうちにどうしても書き残しておきたかった。
*1:その後ちゃんと身の丈にあった仏壇を買った