Really Saying Something

雑文系ブログです。

インターネットとウッチャンナンチャンと日記猿人と日記才人とテキスト庵と私

この記事は、インターネット老人会 Advent Calendar 2023の18日目の記事です。

老人会なのでたっぷり自分の昔話をします。

インターネットとの出会い(1996年)

私とインターネットの出会いは学生時代。大学の計算センターでインターネットに関する授業を受け、HTMLを教わり、「日本の新着情報」(NTT)や「ディレクトリ型」のWebサイト(ヤフーなど)を知り、fjの存在も知り(ちょっとしか触らなかった)、自分の「ホームページ」を作る課題が出た、というのが長きにわたるネットとの付き合いの幕開けでした。

ホームページといってもせいぜい自己紹介を書いて写真や画像素材を載せ、marqeeやblinkやcenterタグを駆使したWeb0.3みたいなものでしたが、自分の手でWebページを作ったり変えたり消したりハイパーリンクを設置したりするのは本当に楽しく、一時期は計算センターに入り浸ってそればかりやっていたこともありました。憧れの職業はYahoo! Japanのサーファーでした。

後述しますが、インターネットといえば大学同士のネットワーク、見るものは英語の情報がメイン、という環境の中では、日本語のものを見たければディレクトリサービスを経由しないとたどり着けなかった時代でした。そんなに時間を費やして何を見ていたのかはあまり思い出せない。

唐突にウッチャンナンチャンのファンサイトを作る(1997年ごろ)

自宅にはワープロ「書院」はあったもののパソコンはありませんでした*1。そこでバイト代などを駆使してパソコンを買い、頑張ってプロバイダに接続したところ、なんと家でもインターネットが見られるようになったのです! すごいねインターネット! So-netありがとう!!*2 そして何よりこの頃の私のよき先生となってくれたのは雑誌『iNTERNET magazine』でした。

iNTERNET magazine - Wikipedia

今これを書くまで忘れていたけど、『iNTERNET magazine』に収録されていたソフトウェアがなかったら、私は自宅でWebサイトを作ることなど全くできなかったでしょう。その節は本当にありがとうございました。

さてインターネット環境をなんとかした私は、自分でもWebサイトを運営したいと思うようになります。そこで考えついたのが、当時ファンになったばかりのウッチャンナンチャンに関するサイトです。

何をしていたかといえば、大好きだったテレビ番組「気分は上々。」の情報をまとめること。この辺からネット上での収集癖は始まっていたのだな……。放送日、ゲスト、企画をtableタグで表にしたり、ツーショットトークコーナーの書き起こしをしたり。メモ帳にHTMLをこつこつと書いてはFTPソフトでアップロードする日々でした。

当時ファンサイトにもいろいろなものがあり、運営者(ファン)同士で仲良くなって番組観覧に出かけたり、ウリナリ!!のロケ現場(遠泳大会)に行ったり、地方(関東ローカル含む)のビデオテープを交換したりダビングしたり……と、インターネットを経由した人との交流を体験し始めたのもこの頃です。空前のPostPetブームやICQでの長話、CGI掲示板でのやりとりなど、密度の濃い時間でした。

コンテンツに行き詰まる→日記を書けば毎日更新できるのでは?(1998年ごろ)

ウッチャンナンチャンファンサイトの運営は楽しかったものの、当時レギュラー番組が相当多くなっていたウンナンの番組を追い続けるのはかなり難しくなり、番組の感想を書いては更新する、程度しかできなくなっていきました。番組のデータベースを作りたいと思っていたくらいだったのに追いつけなくなって挫折。そこで考えついたのがWeb上で日記を書くことです。日記であれば番組の感想じゃなくてもWebページの更新ができる。

そこで、Webで日記を更新する同好の士がいることに気づきます。

当時の個人サイトには、だいたい「リンク集」というものがありました。自分のよく見るサイト、好きなサイト、友達のサイトのリンクをはっておくページです。ウッチャンナンチャンのファンサイト同士でつながったのもリンク集が機能していて、掲示板で「リンクをはります」「はらせてください」のようなやりとりがあったからなのでした。リンク集をたどると、結構いろいろな場所で「Web日記」が展開されていることがわかり、日記を読むことにはまっていきました。

自分でも毎日Webに日記を書き始め、日記コーナーばかり更新するようになった頃、別の日記用のサイトを立ち上げることになります。そこで出会ったのが「日記猿人」です。

日記猿人 - Wikipedia

Wikipediaには簡略化した歴史が載っているのみですが、杉田かおるさんやいとうまい子さんも参加していたWeb日記リンク集でした。読みに行った日記に日記猿人の投票ボタンが貼ってあることが多かったので存在を知りました。どれどれと自分も登録。登録番号は3,000番台後半で、日記猿人の前身である日記リンク集「日記リンクス」には参加できていません。つまり「がくもん系」の流れをくむWeb日記系のWebサイトとしてはかなり後発であることがわかっていただけるかと思います。

この辺になるといちいち注釈が必要な感じですが、昔話なので強引に進めます。

さらっと「がくもん系」と書きましたが、これは当時のインターネット環境が大学(研究施設)に偏っていて、わざわざプロバイダと契約してWebサイトを作る人が相対的に少なかったことに端を発すると思われる、ごく一部で使われていたスラングだと思います。大学のサーバでWebサイトを作って日記を書いている人は結構多くて、日本語のコンテンツといえば大学のac.jpドメイン下ということは結構多かったように感じています*3。それら大学ドメインで書かれている日記をまとめたものが日記リンクスとして発展していき、日記猿人として個人のサイトも多く登録されていった、というような流れだと記憶しています。

私は「がくもん系」の日記を読むのがとても好きでした。また、風俗嬢の日記のブームみたいなものもあり、そのうち何人かは書籍を書いたりエッセイストに転身したりもしていました。お会いすることは叶いませんでしたが、そのうちの1人が菜摘ひかるさん(2002年逝去)です。菜摘ひかるさんのこの本はとてもよかった。

日記猿人とは少しコミュニティが異なりますが、いわゆる「メンタルヘルス系」の日記も結構読んでいました。接点はなかったものの、南条あやさん(1999年逝去)は有名だったので知っていました。また、どういうカテゴライズが適切かわからないのですが、「フォントサイズを極限まで小さくしてデザインをそぎ落とした感じの女性の日記」もよく見かけました。

この頃、自分のWebサイトではなく、今でいうCGMサービスを使った日記・コミュニティもたくさんありました。私が使っていたのはオルトアールでしたが、他にも大塚日記プロジェクト、さるさる日記、エンピツ、ライコスダイアリーなど、ブログ登場前のCGMが出てきて、読むものが多くて楽しかったです。

ニュースサイトやテキストサイトとは違うオフ会の日々(1999年~)

この頃大学を卒業して社会人になった私は、収入を得るようになったのと並行して、日記猿人関連のオフ会へよく出かけていました。私の性質上、当時は今の言葉でいえば「コミュ障」だったはずが、この頃はかなりたくさんの人と出会ったり話したりしていたので、人生何が起きるか全くわかりませんね。新宿や渋谷で飲むことが多く、地方から東京に遊びに来た人と会う時は「迎撃オフ会」と称して大規模に集まったりするなどもしていて、楽しい日々でした。

この頃に交流していた方とは、今も交流が続いていることが多いです。結婚して、お子さんが生まれて、大きくなって、なぜかそのお子さんと今仲良くなっているという出来事もあります。逆にすっごくつまらないことでけんかして交流を絶った人もいました。一方的に文章が好きで、オフ会という形では会えなかったけれどずっと憧れていた人もいました。

それくらい長いスパンで人生に影響を与えてくれたのが日記猿人だったのですが、その頃に誕生していた「ReadMe!」やニュースサイト、そして「テキストサイト」群とはあまり接点がありませんでした。なのであまり語れない。私の中ではテキストサイトといえば「侍魂」のこれ↓。今読んでも面白いな!

ロボット技術の最先端

日記猿人から日記才人へ、そしてテキスト庵(~2007年)

いろいろとトラブルがあり、日記猿人は2000年に「日記才人(にっきさいと)」へと名称変更。その後、2007年7月に稼働を停止します。

その間に私は、2つの大きな転機を迎えています。

ひとつは、2003年頃*4に「はてなダイアリー」を使い始めたことです。はてなダイアリーのベータテスターには入っていないので、当時は「新参者」という気持ちだったのを覚えています。

はてなダイアリーにたどり着いたのは「はてなアンテナ」があったからでした。当時、Webサイトの更新情報を自動で取得するには「朝日奈アンテナ」や「なつみかん」のような仕組み*5が必要で、日記猿人と、その後にできた「テキスト庵」に登録していない人をチェックするにはもうかなり無理があるくらい、Web日記の規模は大きくなっていました。そこに「はてなアンテナって便利らしいよ」という話がわき起こり、いろいろな人がはてなアンテナを作り、当時CGMサービス利用の流れが起きる中、はてなダイアリーヤプース!*6に「サブダイアリーを持つ」ことが流行った、というのが私の視点から見ていた流れでした。そしてそれから5年後、私は思いがけない形ではてなに入社することになります。

もうひとつは、時間軸としては前後しますが、インターネット業界へ転職したことです。

日記才人の管理者で交流もあった牧大輔さん(@lestrrat)に声をかけてもらって、今でいうリファラルでライブドアへ転職しました。その辺のことは以下に書きました。

2005年、ITとは関係のない仕事に就いていた私が当時絶賛人員募集中だったライブドアに入社するきっかけを作ってくれたのは、同じくライブドアに当時在籍していた@lestrratさんこと牧さんでした。牧さんといえば皆さまご存じの通り、YAPC::Asia Tokyoの運営を続けてきたPerlコミュニティの立役者。そして、当時のライブドアには@miyagawaさんもいらっしゃって、Perlの会社としての存在感が強くありました。牧さん・miyagawaさんともに在籍がかぶった期間はほんのわずかではありましたが、その後約1年10ヶ月ほど勤めました。エンジニアが活躍する会社に所属してエンジニア文化の一部を吸収できたことは、その後の私の職歴と思考に大きな影響を与えました。

YAPC::Kyoto 2023に参加するための京都観光を終えて #yapcjapan - Really Saying Something

ライブドアに入っていなかったら、今IT業界にいることはなかったでしょう。日記猿人日記才人は、私の人生を大きく変える存在だったのでした。

そしてテキスト庵(1999年~2007年)の話。テキスト庵はテキスト庵で別のコミュニティの側面があり、私は更新情報を載せるくらいしかしていなかったのですが、ひとつ私に多大なる影響を与えたことがあります。それは「段落文体を使うサイトのリンク集」だったことです。もともと段落文体(一段落に改行を入れない)に近い書き方をしていたのですが、テキスト庵への登録を機に、ほぼ段落文体でしか文章を書かなくなりました。これは地味だけどかなり大きな変革でした。今のWebの編集という仕事においても、この段落文体かそうでないか、という形式の話は多大なる影響があったと思っています。

そして15年以上経った

Web日記がブログサービスに置き換わり、メモ帳にHTMLを書いてFTPでアップロードすることがなくなっても、私は人の日記(やTwitterMastodonその他諸々)を追いかけ、たまに自分で日記を書いています。

三つ子の魂百までとはよく言ったもので、Web上でデータを整理したいと望み、Web日記の世界に足を踏み入れることから始まった私のインターネット人生は、今も変わらず続いているような気がしています。

このあたりの歴史をまとめて読むなら

探してみたらあるものですね。一番わかりやすいのはこちらだと思います。

*1:ワープロでなんとかニフティサーブにつなげたいと思っていたが、当時の私の知識では難しかった。

*2:この時に取得したメールアドレスは今でも存続させています。

*3:個人であればbekkoameやリムネット、朝日ネット、みたいな感じ。

*4:過去の日記はインポートされているため日付不明。

*5:正確に表現できる語彙がない……。

*6:後のヤプログ!